SEKI SADAKO

関 定子 / ソプラノ

北海道出身。北海道教育大から愛知県立芸大を経てイタリアへ留学、ミラノ市立音校で研鑚を積む。1977年には、わずか一年間でヨーロッパの主要国際声楽コンクール6つ(ヴェルディ、エンナ、ロニーゴ、ジーリ、ヴイオッテイ、F=ビーニャス)に優勝・入賞を果たすという快挙を遂げている。

帰国後は二期会、日本オペラ協会、東京室内歌劇場などで着実な演奏活動を展開、世界的なオペラ歌手とも共演を重ねる。中でもイタリア屈指のドラマティックテノール、ニコラ・マルティヌッチを相手にコンサートで歌った「アンドレア・シェニエ」の終幕の二重唱では、マルティヌッチと互角の名唱を繰り広げ、聴衆に大きな衝撃を与えた。最近では、イタリア・オペラ界の女王フィオレンツァ・コッソット(メゾソプラノ)との共演で、ヴェルディ歌劇「イル・トロヴァトーレ」のレオノーラを熱演しその実力を証明した。

 

1990年頃から日本民謡や山田耕筰など日本の歌への探求を深めるようになる。日本の歌のみでニューヨーク・カーネギーホールを満場総立ちの興奮へ導き、現地プレスからも「完成され尽くした芸術家」と最大級の賛辞を得ている。

国内では山田耕筰の作品ばかり100曲を納めた驚異的なCDが1994年度「レコード・アカデミー賞」を受賞、また二度にわたり「文化庁芸術祭賞」を受賞しており、各地でのリサイタルでも絶賛を繰り返している。これまでの“オペラ歌手”の枠にはまり切らない「異色の大器」「遅咲きの大輪」として今後の活躍がますます期待されるばかりでなく、今後の日本歌曲普及のためには、今の日本に欠くことのできない歌手の一人である。

「女優三人が贈るおしゃべりコンサート“歌に生き、恋に生き”」では初回からソプラノとして参加、各地で絶賛を繰り返している。

 



その声の恐るべき威力と、歌唱の魅力について

 

演奏者に対する興味よりも、山田耕筰の作品の魅力が第一の動機でこのCDを手にされた方の為に、ここで演奏を行っている関定子という異常な才能を持ち合わせたソプラノについて触れておきたい。

このソプラノは常識はずれの離れ技をこともなげにやってのけてしまうのであるが、その歌唱の本質を語る時、彼女の声のケタ違いのフレキシビリティーにまず触れないわけにはいかない。彼女の声を初めて聴いた時の驚きは、一体どう表現すればよいだろうか。その時に受けた衝撃は今も強烈に残っているだけでなく、その後彼女の演奏に接する度毎に大きくなっているのである。衝撃をもたらしたのは、関が実際に舞台の上で歌っている模様を収めた一本のカセットテープだった。そこで歌われていた曲が要求する声の種類の余りの多様さ故に、それら全てが一発勝負の舞台の上で一人のソプラノによって歌いのけられているという事実を信じる為には少々時間が必要だった程である。華麗で軽やかな声の跳躍と超絶的技巧がちりばめられたコロラトゥーラの曲とともに、強靱な声の力がなくては歌えないドラマティック・ソプラノに当たられて書かれた曲を、同時にしかも完璧にこなすという、少なくとも理論的には不可能な芸当を、彼女はいとも簡単に(そのように聞こえた!)同一の演奏会でやり遂げていたのだ。それはまるで一人の人間が、土俵に上がり小錦と互角に相撲を取ったかと思った次の瞬間には、バレリーナやフィギア・スケーターに変身して宙に舞うのを見るかの如くであったと言えば何となくお判りいただけるだろうか。単に「器用だ」という言葉で説明のつく代物ではなかったのである。

 

声の範疇から言えば所謂ドラマティック・コロラトゥーラとか、ソプラノ・ドラマティコ・ダジリタに入るのだろうが、古今東西のオペラ史上、真にこの分野に分類される声の持ち主は、マリア・カラス、エレナ・スリオティスを除いては他にその類例を捜すことはちょっと難しい。そしてこの二人共が揃って歌い手としては非常に短命であったことを考えると、元来この種の声は、歌い手の喉に過大な負担をかける、長持ちしにくい酷な性質を持つのかもしれない。

 

関定子の声の物凄い威力の一端を示した例に、彼女がイタリアを代表するドラマティック・テノール、ニコラ・マルティヌッチと共演したコンサートがあった。それは恐らく彼女が日本のうるさいオペラ狂の聴衆の前に、初めて登場したと言ってもよいものである。現在世界の名だたる大劇場で歌い続け、最も声の大きいテノールの一人として名をはせる、このマルティヌッチと歌ったジョルダーノの歌劇「アンドレア・シェニエ」からの二重唱(日本のオペラ・ファンには、あのデル・モナコ=テバルディのコンビによる名唱が焼きついている)、そこで容赦なく鳴り響く分厚いオーケストレーションをバックに、マルティヌッチを向うに回し全くの互角の名唱を残した関定子にびっくりした音楽ファンは少なくないはずである。

 

現在世界の第一線のオペラ・ハウスで活躍するソプラノ達でも、この二重唱でマルティヌッチにひけを取らない歌唱を期待できる人は、それほどいない。しかもそれが可能である者でも、彼女たちが関のように<夜の女王>のアリアを同時に歌えるとは、どうしても考えられない。実際あの夜、ホールで関に「ブラーヴァ」の声援を送った音楽ファンの何人に、彼女の歌う<夜の女王>が想像できただろうか。もちろん天性の声に恵まれたのも事実であろう、しかしそれよりも自ら「発声オタク」を自称する彼女の努力と精進、そして持って生まれた楽器の性質を正しく把握し、その性質を生かす術を知る彼女の音楽的知性にこそ、この想像を超える声のフレキシビリティーの秘密があるように思う。

 

声のフレキシビリティーと共に、彼女の歌の魅力の原動力になっているのは、何を歌ってもその歌に音楽的説得力を与えるディクションの確かさ(これは多分に発声に起因しているだろう)と、心で歌っているとしか思えない表現の彫りの深さである。

 

日本人声楽家が、特にベルカントを基本とするレパートリーを歌う際ほとんどいつも感じてしまうのだが、声楽的にはどこと言って問題なく歌っているはずなのに、何かしっくりとこない、いわば「音楽の顔の平べったさ」や、逆にこのCDのような日本のレパートリーを演奏する際に受ける、土臭い所のない「バターで味付けした和食」のような印象を関の歌から受けることがないのは、このディクションと表現力にある。実は彼女の歌に一番驚かされる瞬間は、この西洋と日本のレパートリーを歌い分ける際に見せる、すばやい変り身の見事さを目の当たりにした時なのである。それはまったく筆舌に尽くし難い、狐につままれたような趣きとでも言えばよいだろうか。(日本フォノグラムからPHILIPSレーベルでリリースされているCD<郷愁~ソプラノによる日本民謡>を是非お聴きいただきたい。「こんなの聴いたことない」と必ずお感じになるだろう。年間おびただしい数でリリースされるCDの中でも、これほどの音楽的完成度を備えているものには、滅多にお目にかかれない。ピアノの塚田佳男共々屈指の名演奏である。このCDは、我々日本人が後世に、そして海外に伝えるべき、国民的音楽財産だと私は思う)。

 

これ迄も海外において西洋のレパートリーで高い評価を得た人もいた。また日本のレパートリーで我々に名唱を残した名手も確かに存在した。しかしその両方を、関定子ほと完璧に同時に成し得た人がいただろうか、疑問である。その点で、関はこれまでの日本に見られなかった、西洋と日本のレパートリーを両立させた、稀有の名手なのだ。

 

自由にコントロールされる声と確かなディクションに支えられる時、歌い手は心おきなく歌を表現する自由を手に入れる。関の歌は“形は整っているが優等生的な歌”の域を超え、血の通った人間のドラマを聞き手に伝え我々の心を揺さぶる。その歌のもたらす感動の大きさは、これ迄彼女の演奏を聴いた、テノールのマテウッツィやクリス・メリット等、世界のトップアーティストが異口同音に、「サダコの歌は世界の一級オペラ・ハウスの天井桟敷の聴衆をも納得させるもの」であることを述べた事実が物語っている。これ程の実力の持ち主でありながら、これ迄はその力を充分に発揮できる機会に恵まれてきたとは言い難い。何とも不思議で残念なことだと私は思うのだた、その意味で彼女の幅広いレパートリーの中で最も重要なものの一つである山田耕筰の歌曲を、これだけまとまった形で収めたこのCDは大変な意義をもつものである。ここでも示されている見事な声と表現を、個々の歌についていちいち述べることは、スペースの関係上ひかえるけれども、これ迄述べてきたことが単なる“ひいきの引き倒し”でないことは、お聴きいただければお判りいただけるだろうと思う。

 

これら日本の歌曲や民謡が、もし―イタリアの民謡や歌曲がそうなったように―あらゆる言語や精神文化の壁を超え、広く海外の人々の心に訴えかける力を備えた<世界のレパートリー>として羽ばたいていくことがあり得るとすれば、私は関定子の歌い手としての資質の中に、その可能性を見る思いである。もっと正確に言えば、彼女ならそれができるに違いないと、密かに確信しているのだ。彼女の活躍を心から願わずにはいられない。